ユマニチュードというか自分の仕事の意義について

7/20(日) 放映された、
NHKスペシャル"認知症800万人"時代
認知症をくい止めろ ~ここまで来た!世界の最前線~

を見た。

ずっと考えているのだけど、もやもやするのでここに書きなぐる。

ユマニチュードという、新しい解釈の対認知症ケア手法についても大きく取り上げられていたので見たのだが、ユマニチュードについては下記を参照して欲しい。

「魔法のよう」と称賛!フランス生まれの認知症ケア「ユマニチュード」とは? - NAVER まとめ

ユマニチュード - Wikipedia


ユマニチュード / 認知症ケア 優しさを伝える技術 - YouTube

 ユマニチュード「Human + attitude」人としての態度・姿勢
言葉のとおりに考ええばわかりやすい。これを技術として突き詰めている。

基本的には、対認知症の方への援助技術としては素晴らしい技術だと感じました。目の前で利用者様が立つ姿を見て涙を流した介護士の涙に嘘は無いと思います。あの場にいたら僕も号泣してるでしょう(もともと涙もろいので)。

 人は理解できないもの、想像を超えたものに出会った時に精神を強く動かされますし、涙が出ることもあるでしょう。
 ですが、本来立てるべき人を立ち上がらせるケアを出来ていない自分や環境に思い至れば、それは恥ずべきことだし、むしろ憤りを覚えるべきな気がしています。

 ユマニチュードの4つの基本は「見る」、「話す」、「触れる」、「立つ」だそうですが、言葉や表現は違うけれど今まで介護現場でやってきていることだと思います。(できていないところも多いとは思いますが)。
 整理された技術としては、素晴らしいと思うので、拒絶するよりは取り込んだ方が良いように感じています。

 番組内で、マニュアル化されることを危惧する発言がありましたが、個人的には、技術を手法として突き詰めつつ、誰が行っているのかが問われている様に感じました。
 魔法の様なケアと表現されますが、イヴ・ジネストさんだから出来るのでは?という疑念は拭えません。ユマニチュードの実践には完璧な技術の習得に加えて、現場で進行していることへの観察力と応用力が重要な気がしています。
 誰がやっても均質なケアでは無くて、僕のする僕のケアを確立するるための、基礎技術として捉えるべきだと思っています。

 ただ、番組を見ている時に違和感がありました。ユマニチュードの説明の時に、介護者も楽になる例として、オムツ交換40分が2分半で出来るんです。と紹介されていましたが、その文言の中に、介護される側の論理が抜けているように感じました。例えば、「介護される方も笑顔でした」とか、の評価軸があれば良かったのですが。
イヴ・ジネストさんの時点では良いのですが、日本の中に組み込まれると、途端に「パターナリズム」の要素が出てくるように感じました。ケアする側の論理・してあげてるというスタンスで語られてしまうように思います。ユマニチュードは結局、施設で安楽に生活してもらうための技術として、捉えられてしまわないか?ということです。
 番組の中では、触ることでストレスホルモンが減るという話でも、触るケアを行うことで、安楽に過ごしてもらう事と、安定剤で静かになってもらうのと何が違うのかがわからないです。そこに利用者様の意思はあるのでしょうか?
 番組の中で、認知症が進行しても、認知機能は残っているとの話がありました、その残った認知機能を使って発露された、「お寺に行きたい」という利用者様の気持ちはどこに行くのか?10回行きたいのが1回になって、その1回に実際に行けているのなら、まだわかりますが、落ち着いて過ごして、お寺に行きたいと言わなくなったことは、ノーマライゼーションの思想ににそっているのか?
考えれば、考えるほどわからなくて、ずっと悩んでいます。

この番組では、他にもいろいろな側面での話を聞けて、とても勉強になりました。
もう少し時間をかけて、考えてみます。

大混乱中です。