追悼 飯野賢治氏 ひとつの時代の終わり・・・・
飯野賢治氏が急逝した。
自分では意識していなかったけれど、僕にとって、飯野賢治は時代の象徴だった。
彼の死を知って、確実に自分の中の何かが終わりを告げたのを感じた・・・。
その思いをここに書きつける。
とりあえず、自分でつくったNAVERまとめがこちら
■邂逅
僕は、セガ者(もの)だった。マスターシステムにあこがれ、メガドライブが出るころにある程度自由にお金が使えるようになり、今思うと信じられないくらいの時間とお金を費やした。
そんな僕に、次世代機戦争という言葉の中で現れたのが「サターン」だった。
東京ゲームショーで、PSの発表とかち合わせて、模造紙に書いた手書きのスペック表うを数時間ごとに書き換えていた熱い時代の中で、僕にとっては夢のマシンだった。
劣勢を強いられるなか、さらにマイナーなマシン3DOで「Dの食卓」というキラータイトルを作ったクリエイターとして知ったのが飯野氏だった。
当時は、怪人と呼ぶにふさわしい体格で、僕自身も結構な巨漢だったので、そういう意味でも親近感を持っていたのかもしれない。
その彼はSSでSEGA陣営に入る、有名な、PSのロゴがSSのロゴにモーフィングする発表会を感動しながらニュースで読んでいた。
D2 E0 と遊んで、彼のゲームそのものは好きに慣れなかったけど、彼の作りだすイベントや流れにワクワクしてた。
風のリグレットもとても好きな作品だった。
DCの苦戦にともなって、彼はゲーム制作の面舞台には出なくなった。
自分の状況が切羽つまったこともあって、彼についてフォローしなくなっていた。
■再開
僕には息子がいる。長男がある競技(スポーツでは無い)の全国大会に出た。その時の審査員が飯野氏だった。結婚して子どもが生まれてことは知っていたが、その子供(当時小学校低学年くらい)をつれて、その大会の審査員を努めている姿を、感動しながら見ていた。
彼に会うために、翌年も息子の全国大会についていった。
声を掛けたかったけど、僕には恐れおおくて声をかけることが出来なかった。
その頃から、彼のTwitterをフォローして、年1回くらい見ながら近況を把握するくらいだった。
■追悼
彼の死を知ったのは、Yahoo!ニュースだった。
二日後くらいに知ったので遅いほうだと思う。
でも、僕の中で何かが変わるのを感じた。
自分にとっての何かが終わるのを感じた。
いろんな仕事をしてきたけど、今、事を起こす側で仕事をしている。
この立場で痛感するのは、
人を動かすのは熱意だということ、
異常な程に熱が何かを成すエネルギーなのだと
彼にはそれがあった。
彼がいた頃のゲーム業界にはそれがあった。
逆か、熱があったかれ彼がいたのかも知れない。
とても大変だったのだと思う。
でも、強烈に憧れる。あの熱を思うたびに
彼には遠く及ばないけれど、
少しでも、熱を持ちたいと思う。
■最後に
謹んでご冥福をお祈りします。
彼の息子さん おそらく中学生くらい?
僕は全く関われませんが、応援しています。
貴方のお父様は素晴らしい人です。
奥様、ご苦労も多かったを思います。
でも、彼を支えてくださったこと感謝しています。
貴方のことを伝える彼のポストを見るのが好きでした。
この駄文は、きっと誰にも届かにけれど。
ここに、万感の思いをこめて書き付けます。